親権に基づく子の引渡し・・・。 われわれ法律家の視点からみると認められるに決まっているではないか、と思います。 現実に、親権は一種の物権であり、物権的妨害排除請求権として引渡しを求めることができるという立論が主流だったようですが、こどもを「物」ととらえるのは違和感を抱くところです。 さて、そうはいうものの、多くは判例は、「監護が著しく不適切でない限り」という留保をつけていますが、そもそも物権的請求であれば留保をつけることはできません。 しかし、理論的根拠はよくわからないけれども,なんとなく「監護が著しく不適切でない限り」という留保をつけてきたのだと思います。 論拠がわからないとどの程度裁判所が審査をするべきかも明晰にわからず、実質2行程度で終わっているものもあれば、だらだら事実を羅列しているものの意味があるのは1行など、論拠が分からないため、実務上の混乱がみられるようになります。上記のように物権で引き渡しを求めてもよいのですから、家事審判のみなぜ留保がつくのだろうということになります。この点は、ある程度、裁判例も集積されている場合と思いますし、おそらくは親権の濫用、子の意向、子の人身の自由、非監護親の面会交流という民法上の権利などが、親権者からの引渡し請求に対する抗弁になり得るのだろうと考えられますが、考えられる理論的根拠は私が考えたもので、裁判所では、人身保護請求の判断枠組み、つまり「親権者のてもとにおいておくと、子の幸福の観点から著しく不当」という人身保護法の判例(最判平成11年5月25日)に毒されているのではないか、と考えられます。実際、審理の実情もほとんど人身保護法における判決文と変わらない表面的なものです。しかし、人身保護法は、悪い人に拉致されてしまったというようなケースに釈放を求める非常救済手続です。最高裁は非常救済手続きであるから本来家裁で審理できる場合でも極限的な状態では人身保護の方が確実に引渡しを受けられるが効力が強すぎることもあり、事実上極度に利用制限をするようになりました。このような利用制限のための規範が、最判平成11年の規範なのであって,こどもの最善の利益という観点からの規範ではないと考えられるのです。 このため、離婚した夫婦間、内縁の男女間なども関係なく人身保護法は適用されるものの、家事審判はもっとセンシティブでなければならないのではないかと考えられます。実際、親権者から非親権者に対する子の引渡し(祖父母含む)では、親権者変更などの審判が係属中であり拘束者への監護権の帰属に高度の蓋然性があり、審判の確定まで暫定的にこどもを非親権者のてもとにおいた方がよいなど子の福祉にかなうなど、判決時に監護権の変更が高度に予想されるなどの極限的な場合に限られるとするのが人身保護法です。 どうも、最近の裁判所は、この規範の射程距離のとりかたを間違えているのではないかと考えたため、今般、許可抗告の申立を行いました。 つまり、非常救済で利用制限のために編み出された規範で表面的な審査しかしない人身保護請求の規範をそのまま借用概念として利用して良いのかという問題提起を最高裁に行いました。 【抗告要旨】 理論的には,親権者には子の引渡し請求権があると考えられており、被拘束者を請求者らの監護のもとに置くことが拘束者らの監護のもとに置くことに比べて子の幸福の観点から著しく不当なものであるということはできないという利益考量の指針を家庭裁判所における家事審判事項としての「親権に基づく引渡し」にまで上述した平成11年判例の射程距離が及ぶか否かは検討する必要がある。 このように最判平成11年5月25日家月51巻10号118頁の射程距離を慎重に検討しなくてはならないのは、最判平成5年10月19日民集47巻8号5099頁の裁判官可部恒雄の補足意見(裁判官園部逸夫が同調)が「このような審判ないし審判前の仮処分は、正しく家庭裁判所の表芸ともいうべきものであり、制度改正にもかかわらず、なおこれが活用されることなく、地方裁判所による人身保護請求が頻用されるとすれば、一面その安易な運用につき反省を要するとともに、他面、家庭裁判所の存在理由にかかわる底の問題として認識されることを要するものと私は考える」と指摘しているからである。 この論旨は,家裁での審査はより実質的関連性,すなわち中身を伴って重要との利益考量指針をもって審査する必要があると解される。 原決定のみならず,原審も,判断枠組みは「親権者に未成年者を監護させることが子の福祉の観点から相当でないと認められる特段の事情がない限り,その引渡しを認める」というものである。 民法では、監護教育権(民法820条)、居所指定権(民法821条)、職業許可権(民法823条)、代理権(民法824条、民法775条、同787条、同791条3項、797条、804条、811条2項、815条)、財産管理権(民法103条)が規定されている。しかしながら,親権の権利性は、親として子に対して有する養育の義務を遂行するのに必要な限りで認められ、他人から不必要に干渉されない法的地位として構成されている。(米倉明「親権概念の転換の必要性」加藤古稀記念『現代社会と民法学の動向(下)(有斐閣、1992年)363~7頁参照、同旨,二宮周平『家族法第3版』207ページ(新世社、2011年)) そうだとすれば、合理性の基準、つまり、最高裁の人身保護請求の定式である「被拘束者を監護権者である請求者の監護の下に置くことが拘束者の監護の下に置くことに比べて子の幸福の観点から著しく不当なもの」という審査基準よりかは厳格で中身を伴った実質的関連性を持った利益考量の指針をもった比較衡量でなければ,可部補足意見の趣旨に反しているといえる。近時,審判前の保全処分では,人身保護請求の枠組みとの混同がみられはじめ,その審査は人身保護請求のように相当に表面的な審査たる合理性の基準程度にとどまり始めることになっている。 しかしながら,人身保護請求は火急の拘束から釈放することが目的であり、究極的には憲法の人身の自由に由来するものといえるから,その判断枠組みの借用概念の規範を用いるのが相当とは考えられない。概ね多くの家庭裁判所裁判例は,「監護が著しく不適切でない限り」という規範を定立しているが、ならば親権者の子の引渡し請求権がどうなるのか,理論的に不明であるし,どのレベルまで実質的に審査するのかが不明と思われるのである。 面会交流の例に説明をすると,①人身保護請求と同様に、子の幸福の観点から著しく不当なものでない限り引渡し請求を認容し、実質審査をほとんど何もしないもの,②東京地裁平成21年7月30日平成20年(ワ)第4984号のように,親権者からの引渡し請求であることを強調し、こどもの福祉に反すると認めるに足る特段の事情がないことという上記①に表面的な審査を補強する程度にとどめる見解と考えられる(ア親権者の育児は稚拙な面があること、イ親権者がこどもの育児を放棄したことはないこと,ウ基本的に親権者がこどもの育児にあたってきたこと,非親権者との親和性は,親権者にこどもを育てる意思や能力が欠けていたといえないことを指摘し,非監護親による監護は正当化されない)。そして,③東京高決昭和52年2月21日家月32巻2号66頁のように実質審査を徹底するもの(ア親権者指定後の事情の変更を考慮,イこどもも、非親権者に引き取られて監護養育を受けて健康に成育し安定した生活を送っていること、ウ非親権者において引続きこどもの監護教育を行なうことがこどもの福祉上適当であって親権者が非親権者に対し,いま強いて事件本人の引渡を求める必然性に乏しいこと,エ親権者であるからといって,たやすく認容し得ない―と説示して,さらに実質審理を尽くす必要ありとして差戻し。)となっている。 上記のように、親権者からの引渡しの場合、親権者には子の引渡し請求権があることは、明治民法時代からの判例法として認められていたのである。そして,法的立論としては,本件抗告審は、民法766条の子の監護に関する処分の一つとしか考えられず、家庭裁判所がする処分であることに照らすと,結局のところ,上記①のように合理性の基準,②のように厳格な合理性の基準,③のように実質的合理的関連性の基準―というように審査は別れるように考えられる。 しかしながら,親権者は、それのみをもって子の引渡しを請求することができると法的に考えられるところ,それを拒む正当な論拠が曖昧であって,「子の福祉」といっても相当に多義的であることから,家事審判として親権者に基づく子の引渡しは,名古屋高裁も②の立場に依拠することを示し、その説示に徴すると,「子の福祉の実現という理念に基づいて監護者としてより適格であるかどうかという観点から判断すべき」というように、名古屋高裁は抗告趣意を整理し,どちらが監護者としてより適格かを判断すべきであるとの抗告人の主張は排斥されている。 思うに、民法改正により、父母が協議上の離婚をするときは、子の監護をすべき者、父又は母と子との面会及びその他の交流、子の監護に要する費用の分担その他の子の監護について必要な事項は、その協議で定める。この場合においては、子の利益を最も優先して考慮しなければならない―ところ,冒頭指摘のとおり、我が国には後見的な子の利益を最も優先して考慮しているか協議離婚において審査する機関が存在しない。そうだとすれば,協議離婚の在り方や協議の内容に実質的に瑕疵があるものと考え(民法766条2項参照),「子の利益を最も優先して考慮しなければならない」(民法766条1項)という見地から審査をするのが相当のように解される。 また,非監護親としての面会交流権も実体的権利を保持しているように解される。(坂梨喬「原則的面会交流論の問題性―元裁判官の立場から」梶村太市ほか『子ども中心の面会交流』) 抗告趣意も坂梨と同様の論旨であり、面会交流は民法上の根拠も得ることがあり明文的権利発生根拠を持つことになった。そして,その権利の発生根拠は,先行する事実関係に求められると解されるのである。家族法とは、「関係性」の法学といってよいところ、先に事実としてどのような関係性があり、その強弱によって,又は毀損の程度に応じて,面会交流権の強弱も高まるものと考えられる。そうすると,百歩譲って,現在は,現時点において婚姻が取り消されていなくても,その可能性が十分にあり、かつ、先行する権利関係から強い面会交流権を保持している場合は、本件でいう抗告人の権利に対するバランシングも必要であるうえ,新たに改正され挿入された「子の利益」「面会交流」についての配慮は欠いていることが明らかである。 具体的にいえば、名古屋高裁は、基本的には利益考量の指針として圧倒的に親権者優位の指針を立てて,それを打ち消すような特段の事情を求めている。このことは説示の内容に徴して明らかである。 たしかに,親権が停止されたり喪失されたりする児童虐待などの特段の事情がある場合は,やむにやまれぬ措置として市長申立てで親権が停止されるとか,喪失されるということもある。このようないわば極限的な状態でなければ、②の立場では救済されないことがある。 この点,親権の濫用,親権の義務性に対応したこどもの権利性などある程度,精緻な理論づけが必要ではないか。 名古屋高裁の判断は,民法改正の経緯を正解しておらず,かつ,③の見解をとる東京高裁決定に違反している。以上からすると,判例を統一する必要性があるうえ,民法改正前の人身保護請求の判例についても,先例的価値は家事審判においては乏しいものといわざるを得ず,最高裁において,親権者からの引渡し請求にあたって,特段の事情があれば引渡しは拒めるとの法理は下級審で確立しているものの、そのウェイトは必ずしも一致しておらず、論拠、制度趣旨、改正の経緯などを踏まえて,民法766条1項、2項についての重要な解釈問題を含むものと考えられる。