「ママレード・ボーイ」にみる先進的な家族観

女性のバイブルともいわれるコミック「ママレード・ボーイ」が映画でリバイバルされている。中山美穂さんが両親‘sを演じているのも話題だ。ココハナという雑誌で、「ママレード・ボーイlittle」の連載が始まったことも大きいようだ。

 

 女性にとっては、憧れの男の子と突如同居することになってというのは、少女コミックスの王道的なストーリーといえます。ただ、それ以上に、「ママレード・ボーイ」が投げつけているのは「新しい家族観」であり、「両親‘S」に振り回される光希と游をコミカルに描いている。

 

 しかし、根底にあるのは、欧米ではよく生じるペアの交代があり、そして交代したもの同士がまた仲良く暮らしている、という日本の社会通念とは異なる考え方の紹介にある。

 

 まず問題となったのは、游の父母である要士と千弥子、光希の父母である仁と留美がパートナーを交換するというのだ。もともと大学時代は要士と留美、千弥子と仁というペアであったがすれ違いから現在のペアになり、こどもができてしまったが、「本来のペア」に戻りたいというのが「両親‘S」の考え方だ。純粋に愛を貫いたといえるのかもしれない。一例を挙げると、フランス大統領のマクロンとブリジット夫妻にも似ている。ブリジットの離婚後、夫は再婚しているので独りにさせて非常識だ、という考え方もなく、ペアリングとダイバーシティ、それに寛容性と自分の人生を生きるという気持ちを感じることができる。しかし、いくらフランスといっても、既に婚姻している人と20歳の年齢差を乗り越えて婚姻するのは簡単なことではない。

 

 他方、モラリストの游は、光希と恋に落ちても、千弥子と仁の子どもではないか、との疑念を抱き近親すぎてモラルに反すると光希を拒絶するようになる。ただしそれは游と勘違いであり、游と光希はめでたく結ばれるというストーリーだ。

 

 法律的なフィルターからみているから、「ときめき」感がないかもしれないが、ステップファミリーの兄弟が結婚するのに近い。ここにも、兄弟視されるカップルが婚姻するための見えない障壁があるかもしれない。少なくとも法律上は、游と光希の両親は重なることになるからだ。だが、養子同士が婚姻することは、法律上は問題がなくても、社会通念のハードルも大きい。両親‘Sに振り回されつつ、多様の家族観を示す「ママレード・ボーイ」はその名のとおり、家族法実務に、「表面的な甘さに騙されるが実はすっぱい」ものというアンチテーゼを示しているかもしれない。

 

 そして、要士と留美、仁と千弥子にそれぞれ立夏、朔が誕生し、ママレード・ボーイlittleも発信している。立夏からみると光希は母が共通、游は父が共通、朔からみると光希は父が共通、游は母が共通だが、立夏と朔との間には、血縁関係はない、という不思議な関係、今後の展開にも注目だ。付き合い始めた立夏と朔。彼らにはどんな障害が待ち受けているのか。

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