映画で調律師がテーマの映画を見た。調律師といっても、新人が奮闘する、たしかにピアノの美しい音色のバックには、調律師の存在がいることを我々は忘れているかもしれない。
ピアノというのは、鍵盤にしても弦にしてもみてみてば、三者三様だ。なぜなら、ピアノというのは、その人の音楽に対する情熱の投影の結果に外ならないからだ。私の実家にあったピアノですら、三人の奏者を失った今、どうしていることだろう。
ただ、調律師に求められるものは難しい。主人公は真面目なタイプだが、ジャズやライブでは即興が求められる、飛ぶは、跳ねるは、の音が求められることもある。
ただ、彼が、気づいたのは、調律師の誰かと比較するのではなく、自分自身がピアノと向かい合っていく、そして自分自身の音色を身に着けるしか解決策はない、ということだ。
劇中、原民喜の「砂漠の花」が紹介され、なつかしく思った。ピアノではなく文体について考えさせられたという一節である。これがピアノにも通じるし、色々なことに通じるのではないか、とアドバイスを受ける。
いわく「明るく澄んでいる懐かしい文体」「少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛へている文体」「夢のように美しいが現実のように確かな文体」・・・。たしかにこんな文体には、憧れるが、なかなか文学家ではない限り、実用的ではないかもしれない。しかし、文体というおもまた、心の反映ということを劇中では先輩調律師はいいたかったのだろう。
この一節が好きだ。
「心をこめて書いたものはやはり自分を感動させることができるようだった」
そして、人として逞しく成長していく。