1 可児弁護士は、結局DVを挙げているのであるが、興味深い指摘もしている。それは、①「大きな対立なく協議離婚が成立し、親権者とならなかった親も柔軟にこどもと交流し子どものことについて協力しあえる父母もいる」という点もいる。むしろ可児弁護士が指摘する①の元父母については共同親権は望ましいし、面会交流も2週間単位で認めたり柔軟に決めていくことに論者も反対する理由がないことを自ら認めている。
2 可児弁護士は、②子どもへの関心が薄く離婚後に子どもと関わることを強く望まない父母もいる。論者はだから「共同親権はいらない」と主張するが、この点は往々の論者と見解を異にしているものと考えられる。そもそも、親はこどもに対して愛情深く接し、必要な教育・監護をする必要があるし、場合によっては自分の職業的技術を付与することもあるだろう。このようなことをペアレンティングと呼ぶ。すなわち、我が国では子どもに関心が低いことがそれでよしとされていた憾みがあるが、今後はこどもに対する親の責任、つまりペアレンティングという観点が重要になってくる。一緒に勉強をしてみたり職業体験をしてみたりするのもペアレンティングである。一例を挙げると、フランスでは中学校でスタジエ(研修)があり一般の企業に自分がコンタクトして職業体験先を見つけないといけないように、こどもの人格形成には親も前向きなものについては積極的に関わる義務があるといえる。
しかし、可児は、選択型になれば単独親権が選択される可能性もあるのではないか、という指摘をしているが、それはある程度当事者的認識に立つとそうなのであるが、子の最善の利益という観点からは、このような場合も共同親権とするべきである。すなわち、父性というのは、一定期間子どもと過ごすという後天的に身につくものと解釈されている。そうであるから、幼児期に別居した場合は面会交流を通して父性を形成し親としての自覚と義務を果たしてもらうしかない。今日では、養育費を支払うことが多くは男性側になるが、非監護親の義務ではない。むしろペアレンティングという点にも着目が必要である。
この点、可児の主張には異論を述べなければならないと思う。
可児の主張するとおり、共同親権は、あくまで親の義務をいうものであって、監護をだれがするかは別に決められる。現実にフランスでも離婚後は8割が母親と暮らしているといわれる。ただ、父親とは100日近い面会交流をしているのもまた事実といえよう。
可児は親権者指定について、父の育児参加は49分、母が3時間45分というが、たいした差とは思えないうえ、首都圏ではほとんどフルタイムで働いている父母同士であればこどもとの関わりは差がないというケースも増えている。そうであるから、可児は前提誤認があり、これはジェンダー平等の視点からの批判があてはまると云わざるを得ず、論理は破綻している。
可児は親権紛争は鋭利化していないという実情を提示する。つまり、親権は何らかの駆け引きに用いられるだけで、たいして鋭利な争いになるケースは少ないということのようである。ただ、返す刀で申し訳ないが、それは面会交流権がきちんと確保されていることが前提になっているケースがほとんどであると思われる。
可児は共同親権の弊害として意思決定の遅滞を挙げるが、もともと我が国の単独親権制度は意思決定の遅滞のみを理由としていたのであるから、事情の変更により育児に関わりたい父親の増加やこどもの喪失感、ペアレンティングの機会の確保といった新しい利益考量が必要となっているといえる。
どの範囲が重要事項であるかなどをいうが、監護権者は母親と指定することが多いであろうから、身の回りのことについては母親が単独で決めることになるだろうが、ファイナンシャルや進路、面会権、医療方針、宗教、財産管理といったいわば保佐人的な重要事項については、共同親権者の非監護権者も有するとすれば、それほど煩雑なようにもならないように思われる。
なお、可児が心配するDVについてであるが、証拠によって身体的暴力が証明される場合は、共同親権は望ましくなく、単独親権としたうえで、面会交流の可否を検討すれば足りるのであって、可児の如くDVの場合に共同親権がいかに危険であるかを力説するかについては前提を欠いているといわざるを得ない。もっとも、可児がいうのは、DVとはいえないが、紛争性が比較的高い案件についていうものと考えられるが、こうした問題こそ「親教育」のガイダンスの実施など行政による介入が求められるのではないかと考えられる。考えられるべきは子の最善の利益ではあるものの、現実には、子父母の利益の調和の観点から決められる必要がある。
可児弁護士は「偏見から自由になるものはすべてを得ることができる」というフランスのことわざを送りたい。バイアスを捨てた議論が今、求められよう。それが子の最善の利益である。