独創的な創造性の片隅で。

さて,今般,アタッチメントという観点から,いくつかのコラムを書きました。 いわば発達障害ないし自閉症スペクトラムの知識が普及するにつれて,愛着の問題が軽視されているという問題提起と受け止められます。 一種の心理学的アプローチのような印象を受けます。 自閉症やADHDでも、エジソンやモーツァルトもそうだったとよくいわれます。 しかし,愛着障害、つまりアタッチメントの観点からみると,政治やビジネスなどなどの領域での活動家というのは、しばしば愛着障害を乗り越えたケースが多いという説明になります。 本当に説明の仕方になってしまいますが,エジソンやモーツァルトも父母との葛藤などはそれぞれ知られるところであり、まあどんな風にも説明できてしまうけれども心理学的に近い精神医学アプローチからは,愛着障害という見立てもできるということなのかもしれません。 さて、この場合①自己への徹底的なこだわりをもつ場合、②自己を超越しようとする場合―があるようです。 こういうものを一種の昇華といいますが,今でいえば安倍首相や橋下大阪市長などもこういう傾向が垣間見えるような印象を持つところです。 心理学的には昇華といいますが、親のような安心基地を持たない場合、いきなり社会の荒波に放り出されて生きてきたという感じになります。 実は,親という安心基地がある場合、その人を基地に縛り付けてしまい、親の期待や庇護という限界、親が設定する常識ないし価値観、「恩」という名の負債などにがんじがらめにされています。 しかし,安心基地を持たない人は,全く常識を欠いた超越したところで物事を見たり感じたりするので,着想が独創的であるという強みを持ちやすいと説明することができます。 そういえば,「創造の前に破壊あり」といっていたことがあったような気がしますが,創造自体が既存の価値観の「破壊」であるといえるのです。 なぜ,スティーブ・ジョブスは,ドラッグやインドへの瞑想などの旅に出たのか、バラク・オバマは、一流企業に就職せずいわば市民活動組織に身を投じたのか。 それは,愛着、つまりアタッチメントの関係での内部に不安定な空虚を抱えており常識の範疇では満足を得られなかったからと考えられる。オバマは就任式でマライアキャリーのHEROを流し,禅宗の影響を当時受けていた彼女の歌を世界中に流した。そして,ジョブスも瞑想に禅宗のルーツともいえるインド仏教に異常なまでに関心を示したことからもうかがえる。これらは,かれらの克服の跡なのだろうと。 そして,その源流をみると,愛着の傷に行きつくことになる。終わりなき旅の代償は、新しい価値とアタッチメントの傷ということがいえるのだろうか。 これまでは,どちらかというと自閉症スペクトラムといった器質的特性,いわば先天的な機能障害で説明されていたものが,再び心理学的要素を取り込んで後天的で,かつ,両親など育成過程の重要性にパラダイムを移すものと考えられるように思います。 このようにみてくると,アタッチメントがあるということは,愛着に保護されて生きていくことになりますし,ずっと生きやすいのではありますが,では,漱石,スティーブジョブス,オバマは否定されるべき存在なのか,というとそれも違うだろうということなので,アタッチメントからこどものことを考える場合,乳幼児の時期の視座としては良いとしても,それ以降は重視されるべきかは価値観の問題であり,少なくとも国が決める問題ではないように思えるのでしょうか。

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