正義の問題は、最も重要な哲学的問題のひとつであり、現実的世界とも深いかかわりをもっている。しかし、いわゆるイデオロギー論争に疲弊し、社会は拝金主義を正義とみなす時期があった。しかし、どう行動するのが正義なのだろうか。我々はとかく不正義を感じたときに正義を感じるというが、どのように定義づけると良いのだろうか。
プラトンの「国家」
プラトンの「国家」は、この問題を扱った最初の哲学書である。プラトンは、正義にかなう社会とは、世界の真の本質を理解している「哲人王」によって厳重に組織・統治された社会のことと考えたという。しかし、「哲人王」の考え方を押し付けるだけで、社会的コンセンサスを得にくいといえる。
近代の哲学の動き
近現代の哲学者たちは、もっと違った結論に達している。ミルは功利主義的正義論を提示したが、功利主義のみに傾斜した正義論に一石を投じるものであった。ミルによれば、正義にかなう諸制度、正義にかなう社会とは、社会に所属する市民の幸福を最大にする社会である、というものである。例えば、犯罪者を罰することを功利主義では、「犯罪者を罰することは正義である。なぜなら、それによって他の人間は悪をしようとしなくなり、その結果、全体的な犯罪が減少する」功利があるからと指摘される。
しかし、ミルの哲学は、少数者の人権排除、拝金主義に陥りやすい、死刑をしたら利益だという考え方に違和感があるといった反論がある。
ジョン・ロールズ
ロールズの正義論は、疲弊していた私たちに新しい正義の見方を提示した。ロールズは、作業仮設として、人類にまだ政府がない場合において、自分がどのような階級に生まれてくるのか、全く分からない「無知のヴェール」に包まれた状態で、最善を決するとき、分配としての正義が生まれると論じる。
つまり、自分は、どのような人間か分からないから財産、才能、地位を得られるか分からないので、最も力がない人でも受け入れ可能な案、つまり合理的な案になると論ずる。
ロールズは、真に正義にかなう政治制度とは、合理的に行動する人が、「無知のヴェール」に覆われた状態で選ぶことができる制度という。この点は、共感できるものだ。なぜなら、傲慢な政治家、団体の理事者なども、この「無知のヴェール」に覆われると、物事を慎重に運び合理性があると思われる。私は、これを互換性と呼んでいるのだが、人間は生きていくうえで、絶対的な身分制度ではない以上、今は強者でも互換性があると考えている。だから、「無知のヴェール」に包まれたうえで、いわば、私心を捨てた合理性ある判断が求められると考えられる。