我思う、故に我あり、ルネ=デカルトの「コギト・エルゴ・スム」だ。この言葉、1641年出版の「省察」に登場しています。
私たちは、この言葉を聴いて、自分が思うので、それが自分の存在証明なのかな、という結論を得ます。しかし、デカルトは、「正しいと確信できないもの」を除いていったものです。
しかし、信じているものすべてを徹底的に疑った末に残るもの、という議論の立て方です。この結論について、哲学らしい形而上学的なものを感じますが、感覚的経験の世界を持っている人も少なくないでしょう。したがって、この帰結は支持できない、あるいは、誤解した意味として伝わっているように思います。
デカルトは、唯一、自分が考えているということだけは、疑うことができなかった、というのですが、何か表面的な感じは否めないところです。もし確かであれば、自分が存在することも確か、というのは、論理的に「逆」なのではないかなという誤謬があるように思います。こうして、デカルトは、ただ、ひとつの確実なものとして、自分自身が存在していることを発見したといいます。
しかし、自己の思考も通常は合理的でなければならず、その心証も不断の検証にさらされているので、自分自身の感覚を疑うのは不可能というのは、一般的なプロフェッションからすると疑問です。
そうなると、有名な、「我思う、故に我あり」の根幹も崩れてしまうのではないかと思います。
デカルトの自分は絶対と考える考え方は、哲学者の自己認識の問題点の出発点になっています。つまり、自分自身を内側から認識するということは、どのような特徴があるのか、還元すれば、自分の考え、感情、欲求について考えることと、それ以外のことについて考えることは、どう違うのか、という問いである。
一説によれば、ある人々はじぶんの考えていることや感じていることを正直に述べていることは間違うことはできないといいます。法令の事実認定においても迫真性がある場合、人間は詳細な嘘をつくことができないと考えられているので誤謬は入りにくいという経験則とも合致するものがあります。
つまり、「われ思う、故に我あり」というのは自己認識の問題といえます。痛いと自分で感じているとき、自分の思っていることに間違いはないということ、それを飛躍させて「自分自身が存在するという真理」という論理に結びつけています。これらを「コギト」の議論といいます。デカルトは、神の存在証明を行っており、思い込みの激しさがうかがえ、自分の証明は非常に強力なもので疑うことはできないと考えていたといわれています。