アドラーは、社会性という縦軸と行動力が伴うかという横軸で4つから5つのパーソナリティと整理しました。 もっとも、共同体の利益への関心があるが、行動をしない人はいないとアドラーは考えました。 しかしながら、評論家などは共同体には関心があるものの、いろいろな理由をつけて行動をしません。 この点、社会性や共同体への利益があるというためには、行動が伴っていることがマストといえると考えられます。 そうすると、社会に出ていかず、判決文を書いて評論をしている人というのは、アドラーにいわせると共同体感覚の持ち主とはいえず、私的論理で行動する人に位置づけられるように考えられます。 共同体感覚は、行為で実践するものですが、知識レベルは高くても、実際にアクションは起こさない場合、評論家、行動しない人と分類できるのかもしれません。 たしかに、大規模企業も横のつながりは余りありませんが、閉じられた世界で自己完結をしているとなると共同体利益への関心があるとはいえず、私的論理での行動と評価を受けざるを得ないかもしれません。 そうすると私的論理での行動を招く可能性があります。 こうした点につき、共同体の利益への関心があり、かつ、活動力がある弁護士が、実は私的論理に基づいているかもしれないアドラーの分析による裁判所への働きかけをしていくことになるのか、と著書を読んでいて考えるところです。もっとも、リーガルハイにも出てきた別府裁判官などは、検証をする、多数決をさせる、など具体的行動をする人で、社会的有用な人という評価となるような印象を受けます。 常々感じるのは、感謝やねぎらいの言葉、相手を勇気づける言葉、人の心を和ませる笑顔、より多く与えることが、大事と感じます。